宇和島城について

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別名「鶴島城」と呼ばれる宇和島城の天守は、“現存12郭”の1つで当時のまま現存する貴重なものです。
宇和島城は中世期の「板島丸串城」の跡に慶長6年(1601)、藤堂高虎によって築城されました。上から見ると不等辺五角形の城郭は高虎ならではの工夫です。
理由は、四角形だと戦の時に海以外の地上3方向を包囲されてしまった場合、船で海から逃げようとしても必ず左右の敵に見つかってしまいます。しかし、五角形にすると、左右両方向には見つからず1方向の敵にしか逃げたところが見えないのです!つまり、海に面している宇和島城では、五角形にしたほうが逃走成功率が上がるのです!徳川幕府が派遣した人は江戸に送った密書に「宇和島は四方の間、合わせて十四町」と見誤ったそうです。実際に地上から宇和島城を見ると、四角い堀で囲まれているように見えるんだとか…。また、逃走経路だけでなく、籠城時の物資搬入口にもなるんだそうです。
宇和島城は、標高約80mの城山の山頂にある天守を囲むように様々な建物が建てられた梯郭式の平山城です。東側に海水を引き込んだ水堀、西側半分が海に接しているため「海城(水城)」でもあります。
写真は、天守閣から見える海側の景色です。タイミングがいいと、小さな漁船やえひめ丸などの大型船舶の出航や着岸の様子が見れます。
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宇和島市街地の写真です。

宇和島城は、江戸時代宇和島藩の藩庁としての役割を果たしました。
1937年に城跡は国の史跡に指定されています。
城山の北登山口にある桑折(こおり)氏武家長屋門は、宇和島市の文化財に指定されています。現在は間口15mですが、本来は35mだそうです。かつては南登山口から天守に至るまで7つの門がありましたが、残っているのは、上り立ち門のみです。

宇和島城の歴史

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宇和島城の歴史は、平安時代にまでさかのぼります。
941年、警固役だった橘遠保(たちばなのとおやす)が当時反乱を起こしていた藤原純友を捕えた功績により、宇和島に砦を築いたのが始まりと伝えられています。
当時は「板島丸串城」と呼ばれていました。

1595年、中国毛利攻めや賤ケ岳の戦いで軍功を上げた藤堂高虎が宇和郡の領主となります。その後、1596年~1601年の約5年で宇和島城を築城。この時、城の名前を「宇和島城」に改めました。高虎にとって「自分の居城」は宇和島城が初めてです。
1608年、高虎は大阪を攻めるため伊賀国(三重県伊賀地方)・伊勢国(三重県北中部)に移ります。
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1614年の大阪冬の陣での功績により、伊達政宗の子どもである伊達秀宗が宇和郡10万石を与えられ、1615年、宇和島藩初代藩主となります。
以後、明治維新まで伊達家が城主を勤め、2代目藩主伊達宗利の時代に天守が今の姿に改修されました。
明治時代には、民間への払い下げが決定されますが「宇和島城を残してほしい」という宇和島の人々の声から8代目藩主伊達宗城(むねなり)が「伊達家が城山を保護するため」とし、城山ごと買い戻しました。
伊達宗城は、藩政改革に力を入れ、「幕末の四賢侯」と称されています。

宇和島城へのアクセス

不器用大学生の旅行日記~宇和島城~Part1、いかがでしたか?
今回は、宇和島城の歴史や交通アクセスについてご紹介しました!!
次回旅行日記~宇和島城~Part2は主に宇和島城周辺施設についてご紹介します!
ぜひご覧ください!

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