お城巡り

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御城印とは、スタンプに代わる登城記念のことです。
最も古いとされる長野県の松本城は1991年ごろから販売されています。2018年以降、急増し現在は705城1728枚の御城印が販売されています。
見た目は御朱印と似ていますが、ほとんどの御朱印は半紙(和紙)の中央に城名が書かれ、そこに城主の家紋が朱印されています。
写真は、去年の7月に今治城に行った際の御城印です!

今治城の歴史

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1600年の天下分け目の戦い”関ヶ原の戦い”の戦功により伊予半国20万石を領した藤堂高虎が瀬戸内海に面した海岸に築いた大規模な平城です。昭和28年(1953)10月9日に愛媛県史跡に指定されました。
慶長7年(1602)、藤堂高虎によって築城開始され、慶長9年(1604)に完成しました。
今治城完成以前の今治の支配拠点は、唐子山山頂にあった国府城だったが、より能率的な都市経営を目指すため今治城が築城されました。
構造は、三重の堀に海水を引き入れた特異な構造で、当時は海から堀へ直接船で入ることができるなど海上交通の要所今治らしく海を最大限活用した城です。
今治城の城主は、藤堂高虎→高吉(藤堂高虎の養子)→松平(久松)定房と代わり、以後明治維新まで今治藩松平氏の居城となりました。
広大な城郭は江戸260年間保たれましたが、明治維新以後、廃城令施行前の明治2年(1869)に廃城され、ほとんどの建築物が破却されてしまいました。この時、二の丸北隅の武具櫓は収蔵物とともに残されましたが、明治4年(1871)に火災が発生した際、内部の火薬に引火してしまい爆発炎上し破却してしまいました。

藤堂高虎について

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藤堂高虎とは、戦国時代~江戸時代初期にかけての武将・大名。
伊予今治藩、のちに伊勢津藩の初代藩主となります。
何度も主君をかえた戦国武将として知られています。
高虎は築城技術に長け、宇和島城・今治城・津城・伊賀上野城・膳所城・二条城などを築城し、黒田孝高、加藤清正とともに名人として知られています。高虎の居城は、石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、石垣のそりを重視する加藤清正と対比されています。
戦国大名・浅井長政の家臣として付け、初陣を果たしたのは元亀元年(1570)の織田・徳川連合軍と対峙した「姉川の戦い」です。”足軽”として参戦しましたが、見事に武功を上げます。
さらに天正4年(1576)には「羽柴秀長」の家臣となり、その後も中国攻め、賤ケ岳の戦い、四国攻め、紀州征伐などの豊臣秀吉のかかわったいくつもの合戦に出陣しています。数々のの功績を残し、1万石の大名となります。
その後、粉河(こかわ)2万石の大名になりますが、主家断絶で豊臣筆吉の家臣となります。豊臣秀吉に使える一方で徳川家康との親交を深めていきました。
1600年の関ヶ原の戦いでは東軍として出陣しました。ここでの功績が認められ、伊予20万石を与えられ今治城を築きます。1608年には2代将軍徳川秀忠から加増移封され、22万石の津藩主となります。
大坂夏の陣で徳川軍の勝利に寄与した軍功が認められ、1617年32万3千石の石高を持ちます。
32万石余りの石高は藤堂高虎の亡き後も幕末まで引き継がれました。

今治城への交通アクセス

最後に

今回のお城巡り日記は愛媛県今治市にある「今治城」でした!!
いかがでしたでしょうか?

いち足軽だった藤堂高虎は32万石余りの大名にまで成長しました。すごくロマンを感じますよね!
もっともっと藤堂高虎について深堀すれば現代にも通用することをえられるかもしれませんね!

以上、お城巡り~今治城~でした!!
次回の更新もお楽しみに!!

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