広島城の歴史

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広島城は、1589年に毛利輝元によって安芸国安芸郡広島(現在の広島県広島市中区基町)に築かれた近世城郭で、国の史跡に指定されています。
1945年まで天守をはじめとする城郭建築が現存し点在していましたが、1945年8月6日アメリカ軍による原子爆弾投下によって倒壊してしまいました。そのため、現在みられる場内の天守以下城郭建築はすべて1958年以降に再建されたものです。

広島城の城主は、毛利輝元→福島正則→浅井長晟と代わり、浅井長晟以降12代約250年にわたり浅井家が広島城城主を勤めます。この250年続いた浅井の時代に広島は城下町としての発展を遂げることになったのです。
1871年の廃藩置県後には陸軍の施設が場内に置かれ、本丸は広島県庁舎となります。
1894年の日清戦争では、広島大本営が、1897年には広島陸軍地方幼年学校が設置され、広島は「軍用地」としての活用が進みます。
この当時の天守閣は、毛利輝元によって作られたもので国内でも岡山城天守に次ぐ古式のあるものでした。しかし、1945年8月6日の原子爆弾投下によって完全崩壊し、現在の天守閣はその後再建されたものです。
1回目の再建は、1961年に作られた木造仮設のもの、いま私たちが見ている広島城は1958年に鉄筋コンクリートで作られたものです。

毛利輝元とはいったいどんな人物…?

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広島城を築いた「毛利輝元」とはいったいどんな人物だったのでしょう。

毛利輝元は、永禄6年(1563)父である毛利隆元の急逝により11歳で毛利家の家督を継ぎ、毛利氏14代当主となります。
元亀2年(1571)、祖父である毛利元就が死去すると、叔父の吉川元春・小早川隆景の補佐を受け、中国地方の大部分を占める「戦国大名毛利家」の基盤を引き継ぎます。しかし、やがて織田信長と対立するようになり、山陰・山陽の各方面で織田軍勢と戦いました。
天正10年(1582)本能寺の変により織田信長が討たれると、備中高松城で羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と講和を結びます。
秀吉が信長の後継者としての地位を確立すると、輝元は秀吉に臣従し、慶長2年(1597)に設けられたとされる「五大老」の1人として、豊臣政権を補佐しました。

福島正則、浅井家の時代

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1600年の天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」で毛利輝元は西軍の総大将となり、敗れた後は現在の山口県萩に移らざるを得なくなりました。
毛利輝元に代わって広島城城主となったのが、福島正則です。福島正則は、広島を城下町として整備をしていきます。しかい、城の改築の際の不手際で武家諸法度違反となり、城を去ることになります。
福島正則は信濃の国川中島へ送られ、福島正則に代わって広島城に入城したのが、浅井長晟です。
その後広島城城主は浅井家が12代約250年のも間引継ぎ、広島を城下町として発展させていきます。

広島城への交通アクセス

JR新白島駅から徒歩約10~15分
広島駅から路面電車で15分「紙屋町東」電停下車し徒歩15分
広島駅からバスで15分「紙屋町」バス停から徒歩15分
中国放送が隣接しているため、中国放送の電波塔が目印です!!

広島城から徒歩約15分で本通りにも行けくことができるので、広島城に行く前後でショッピングを楽しむこともできます!!
また、近くには「縮景園」や「原爆ドーム」もあり、”広島の歴史を楽しむ旅”などの計画をするのも楽しいかもしれません!!

最後に

お城巡りシリーズ一回目の投稿は「広島城」でした!
いかがでしたでしょうか??
今回、この記事を書いてお城の歴史を深堀していくことが楽しくなりました!

広島城=毛利氏のイメージが強かったのですが、広島が発展したのは浅井の時代だということを知り少し驚きました。

これからも行ったことのあるお城について、そのお城の歴史とともに皆さんにお伝えして生きたと思います!

以上、お城巡り日記~広島城~でした!!
次回の更新をお楽しみに!!

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